『マツやんの 10倍ワーニャ伯父さん』#3
しかし無理がありますよ。
なにがって、『ワーニャ伯父さん』を読むペィスですか。
これまでの2回を換算すると、「光文社古典新訳文庫」版で7,8ぺージ目を読んだにすぎない。ここからずーっと行って、最後の、ソーニャ
「あたしたち、息がつけるようになるんだわ!」
は129ページ目なんです。ぜんぜんまだまだ、道のりが長い、長すぎるでしょう??
ちらりとネタバレをはさんで、はじまりました。
(~前回までのあらすじ
『翳りの森』をより楽しむために、原作『ワーニャ伯父さん』を読んでみる。
「ワーニャ」は、「ソーニャ」の伯父さんだということがわかった~)
しかしもうひとつ、ペース以上に危惧しなければならないのは、
『ワーニャ伯父さん』の面白さを伝えなければならない。いちおう。
っていうところです。
なんだか、読もうとするばかりでそのことを忘れていた。
そう。読むことは第二の条件なのだ。
まずこのブログは、『ワーニャ伯父さん』(の何か)を10倍にするためのものなのですから。
そうだ!!!
やるぞ!!!!
じゃあ
よく知ってるだろうから、『翳りの森』のみんなに訊いていきましょうか。
「ワーニャ伯父さんのどこが面白いんですか?」
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「『ワーニャ伯父さん』の面白いところを教えてください」
演出:越寛生
「全部」
~~~よくわかりました。
「『ワーニャ伯父さん』の面白いところを教えてください」
出演:三澤さき
「みんな不満ばっかり!」
そうなんだ。
「『ワーニャ伯父さん』の面白いところを教えてください」
出演:中村あさき
「みんなよく喋る」
喋るよねー。
と、いう意見が出たところで、今回は第一幕の始まりあたりを見てみましょう。
「セレブリャコーフの田舎屋敷」の庭で、乳母(老婆)のマリーナと、屋敷かかりつけ医師のアーストロフがぼんやりと語らっています。昼下がり、曇り空。もうずいぶん長いつきあいだね、昔はどんなだったっけ、という流れで……
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アーストロフ そう。……この十年のまに、すっかり人間が変ってしまったよ。それもそのはずさ。働きすぎたからなあ、ばあやさん。朝から晩まで、のべつ立ちどおしで、休むまもありゃしない。晩は晩で、毛布(ケット)のしたにちぢこまって、今にも患者から呼び出しが来やしまいかと、びくびくしている始末だ。この十年のあいだ、わたしは一日(いちんち)だって、のんびりした日はなかった。これじゃ、ふけずにいろというほうが、よっぽど無理だよ。おまけにさ、毎日々々の暮しが、退屈で、ばかばかしくて、鼻もちがならないときている。……ずるずると、泥沼へ引きずりこまれるみたいなものさ。ぐるりにいる連中ときたら、どいつもこいつも、みんな妙ちきりんなデクの坊ばかりだ。ああした連中と、二年三年と付き合ってみるがいい。知らないうちに段々、こっちまでが妙ちきりんな人間になってしまう。これは所詮、どうにもならない運命だよ。(長い口髭をひねりながら)いやはや、この髭も、どえらく伸びたもんじゃないか。……ばかげた髭さね。もっとも私は、妙てけれんな男になりはしたものの……ばかになったかというと、まだ必ずしもそうじゃない。ありがたいことに、脳みそだけは、まだちゃんとしている。人間らしい感じのほうは、どうやら、だいぶ鈍ってきたようだがね。なんにも欲しくない、なんにも要らない、誰といって好きな人もない。……ただしね、あんただけは好きだよ(乳母の額にキスする)。わたしも子供のころ、ちょうどあんたみたいな乳母がいたっけ。
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「よく喋る」。
「不満ばっかり」。
陰気。曇り空。
しかしこれも含めて、「全部」面白いのだという。
そらどういうこってしょうか??
ひとつ、ヒントがあるかもしれないのは、チェーホフによってタイトルに付けられた概略? です。
『ワーニャ伯父さん』では、
「――田園生活の情景 四幕――」
と書かれてあった、あれ。ほかのチェーホフ劇も見てみますと・・・。
喜劇と書いてある。じゃあ、それらのストーリーはどんなものでしょうか。
見てみましょう。
~『桜の園』は下町の食堂が舞台。ぼんやり息子のケンちゃんは、幼馴染で金物屋のよし子ちゃんに告白をしたいと思っているが、踏ん切りがつかない。毎日顔を出してくれる駐在さん、常連の大工の棟梁、会計士さん、ブスのマミちゃん、そしておかみさんらの後押しでいざ告白、というところで、近所のパチンコ強盗が食堂へ逃げ込んでくる! 人質にとられるよし子さん。しかし告白サプライズの段取りが思わぬ功を奏し、強盗は御用、ケンちゃんのプロポーズも無事に成功をおさめ、その様子を見ていた親父さんは、ケンちゃんを食堂の跡取りとして認めるのだった~
嘘。
『かもめ』は、新進の劇作家が、彼女を主役にして前衛劇をうって失敗し、彼女は有名な劇作家にとられ、2年後に再会してみると彼女は劇作家との関係も切れて、生んだ子供も死に、ずいぶんと変わっていて、そんな感じでも自分との関係はなんだかこばむので、ピストルで自殺してしまう話。
『桜の園』は、かつては富豪だったものの、広大な屋敷は借金のカタに入り、昔の召使みたいなやつがそれを競売で競り落として「ザマーミロ!」といって、追い出されていく家族とかの話。
だったと思います。
これは喜劇なのでしょうか。
しかし、
これを、喜劇とする。
そこから、チェーホフをどう読もうかなぁ、がはじまるのかもしれません。
実は上の、すごい適当なあらすじの書き方は、騙しが入っています。
どちらも「新進の劇作家」「かつて富豪だった家族」を主役にしてまとめていますが、しかしチェーホフの劇では、等分に、「彼女」も「有名な劇作家」も「昔の召使みたいなやつ」も、そして他のもっといる登場人物たちみなが存在感を発揮していく。
誰に寄り添って(=感情移入して?)見る、というのは自由であるし、誰にも寄り添わないことも大いにできる。
チャップリンの名言として残っている、
「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇である」
が、チェーホフのやりたかったことにもあてはまってくる・・・のかも。
『ワーニャ伯父さん』も、ワーニャ伯父さんにとってはなかなかの悲劇ですが、チェーホフからは「――田園生活の情景――」なわけで。
つらさをわめいても、すべて情景にされるおっさん。
そういうものかもしれません。
だけど、けっこう「近く」で見させちゃう引力があるんだなあ、チェーホフ。
それをどうしたらいいでしょう・・・。
ではまたこんど。