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ベジタリアンになってみた

宮沢賢治は詩人・童話作家という顔のほか、地質学者、鉱物学者、農学者、天文学者、法華経信者などなどさまざまな顔を持っています。「多面体」とも評される彼には、菜食主義者としての一面もありました。1918年に友人へあてた手紙に「わたしは春から生物のからだを食ふのをやめました。」と書いているし、「ビジテリアン大祭」というベジタリアンという考え方を紹介するような童話もあるし、なにより今回劇にする「フランドン農学校の豚」では屠畜される豚の恐怖を描いている。すなわち菜食は彼にとって重要な要素に違いない。ぼくはこれまでほとんど宮沢賢治のことを知らないので、とにかく何か彼に近づかなければと思って、ひとまず自分でもベジタリアンをやってみることにしました。

ぼくが始めたのは卵と乳製品はありのもっとも軽いベジタリアンです。ベジタリアンには動機や思想に応じていくつかの種類があり、もっとも簡単なのがこのラクト・オボベジタリアンで、卵だけありならオボベジタリアン、乳製品がありならラクトベジタリアン、野菜だけを食べるものをヴィーガン(ベジタリアン)というそうです。さらには、自然に落ちてきた果物だけを食すフルータリアンなる立場もあると聞きます。命を積極的に奪わないということが趣旨だとするならば勝手に死んだ動物などは食べてもよいということかもしれませんがよく知りません。

ぼくの場合は思想もクソもなくただマネをしてみたいという一心なので、はじめの一週間はほんとうにつらくて毎日お肉を食べたくてしかたありませんでした。というか何度か食べてしまってそのたびに最初から数え直していました。それでもある日、獣肉のお店で食べたラクダのお肉を最後に、きっぱりと肉を断ちました。お魚も断ちました。アクシデントで小魚を食べてしまったことはありますがそれはご愛嬌ということにしました。それが8月5日からなので約2カ月になります。

野菜をたくさん食べているから身体の調子が良い、ということは全然なくて、肉や魚が食べられない不満からご飯やお菓子を食べる量が増えます。飲酒や喫煙の回数も増えます。指先がカサカサするし、ニキビも増えました。疲れやすくもなりました。あまり健康ではありません。ひとつくらいいことがあるだろうというかもしれませんが本当にない。いやあるとすれば飲み会などで話題になります。ぼくが料理に手を付けないでいるとたいてい誰かが声をかけてくれるが、

 「食べないの?」

 「いまベジタリアンやってるんです」

 というと相手は感心して、とりあえず

 「え、すごいねー」

 などと言ってくれます。そこから

 「え、なんで」

 と尋ねてくれればこっちのもので、

 「実は今度宮沢賢治の劇をやるんだけど、、、」

 と容易に宣伝に持っていくことができる。けれどもあとはじゃあコレは食べられないのね、あ、いいです皆さんで召し上がって、というようなやりとりをしてお互いに気を遣う。理解あるふうに多めによそってくれたサラダにちょろちょろとベーコンがひっついている。細かいからいちいちはがすのが面倒くさいし見られたら相手にも悪い。ほとんど手を出せないからお酒を飲むしかないがはたしてこれは宮沢賢治的な食生活なのか?

 これが一週間前までの話で、じつは奈良県の友達に会いに行ったときにお好み焼き屋さんに連れていってもらって、明石焼きだとか焼きそばだとかが出てきて、あんまりおいしそうなのでいか・たこ・ちくわをけっきょく食べてしまいました。久しぶりの魚介類はそれはそれはおいしかったです。それからまた元の菜食にもどりましたが、じつは「魚介」ということではすでにある点で妥協していました。それはカツオダシで、日本のごはんにはだいたいカツオダシが使われていますから、お味噌汁を飲むのもおそばを食べるのも菜食ではありません。昆布のダシに変えればいいのですが実家で暮らしているとなかなか言い出せず、いちどダシ抜きの味噌汁を作ってみたがとてもまずかった。白状するならばもっと細かいところ、たとえばコンビニのお総菜などで成分表を見ると、一番最後のほうに「(原材料の一部にエビ・カニを含む)」みたいなことが書いてあるのも食卓に出たものであれば無視してきましたし、添加物の中に動物由来のものがあるかどうかということまでは調べませんでしたので食べていると思います。

 そしてそれ以上に細かいことを「ビジテリアン大祭」では書いていて、主人公らベジタリアンたちが集まる大会に反ベジタリアンらによるパンフレットが投げ込まれるのですが、

「「諸君がどんなにがんばって、馬鈴薯とキャベジ、メリケン粉ぐらいを食っていようと、海岸ではあんまりたくさん魚がとれて困る。せっかく死んでも、それを食べてくれる人もなし、かあいそうに魚はみんなシャベルで釜になげ込まれ、煮えるとすくわれて、締木にかけて圧搾される。(中略)締木にかけたほうは魚粕です。(中略)みなさん海岸へ行ってめまいをしてはいけません。また農場へ行ってめまいをしてもいけません。なぜなら、その魚粕をつかうとキャベジでも麦でもずいぶんよく穫れます。/おまけにキャベジ一つこさえるには、百匹からの青虫を除らなければならないのですぜ。」」(引用は青空文庫より、以下同じ)

という意地の悪い文面に対してどう反撃するのかと思いきや、

「どうも理論上この反対者の主張が買っているように思われたのであります。」

なんて弱気になってしまうし、また別の論者の、

「諸君がちょっと菜っ葉へ酢をかけてたべる、そのとき諸君の胃袋にはいって死んでしまうバクテリヤの数は百億や二百億じゃききゃしない。諸君がちょっと葡萄をたべる、その一房にいくらの細菌や酵母がついているか、もっと早いとこ諸君が町の空気を吸う。一回に多いときなら一万ぐらいの細菌が殺される。」

 という理屈に対する反論も、

「いったいバクテリヤがそこにあるのを殺すというようなことは、馬を殺すというようなのと非常なちがいです。(中略)とにかく私どもが生まれつきバクテリヤについては殺すとかかあいそうだとかあんまりひどく考えない。それでいいのです。またしかたないのです。」

 となんというか歯切れが悪い。(そういう部分ばっかり抜き出しているせいもあるけれど。)とにかく自分の目に届かない範囲の事柄については考慮しない/考慮できない、という態度でいるらしく、たしかに一度考え始めるとこの問題にはどこまでいっても終わりがないから自分がきちんと生活できる範囲でどこかで区切りをつけなければいけない、つまりカツオダシや添加物も言ってしまえば「程度の問題」となるのでぼく自身がこれらを生活のうえでどうしても必要と感じれば食べてしまってよいことになる。それでは彼の「程度」はいったいどうだったのかということを調べたくてウィキペディアの宮沢賢治の項目を見てみると、「農学校教師時代は菜食主義を止めており」とか「鶏肉が入った蕎麦も好んでいた」などと書いてあり、なんだそりゃこの多面体野郎め!と思ってこの文章を書きました。 (越)


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