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『ガラスの動物園』とKさんとの話

(稽古場より。左から中村あさき、西本健吾、川村良太。)

今回はテネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』という劇を下敷きにしてお話を作りました。なぜ『ガラスの動物園』かというと、お話を考えている時に、引きこもり気味のお姉ちゃんがいて、お母さんがそれをなんとか引っ張り出そうとしていて、そういう家族にいづらさを感じているというか家を出ていきたい弟、というお話を考えていたが、なんだか覚えのあるストーリーだなあと思っていたら、それは『ガラスの動物園』そのものだったのです。

あらすじを書くと、「不況自体のセント・ルイスの裏街を舞台に、生活に疲れ果てて、昔の夢を追い、はかない幸せを夢見る母親、脚が悪く、極度に内気な、婚期の遅れた姉、青年らしい夢とみじめな現実に追われて家出する文学青年の弟の三人が展開する抒情的な追憶の劇。作者の激しいヒューマニズムが全編に脈うつ名編で、この戯曲によって、ウィリアムズは、戦後アメリカ劇壇第一の有望な新人と認められた。」(新潮文庫版の裏表紙より)です。

テネシー・ウィリアムズの作品はしばしば自伝的だと言われますが、この母や姉も実際の家族がモデルになっており、弟のトムは作者自身のポジションに当たります。また、後半に「青年紳士」が登場しますが、彼が姉の初恋(片思い)の相手であり、母としては彼と娘をくっつけたい、というのがそこで起こる事件です。

さて、以上の4人が舞台上で演じられるキャラクターなのですが、この作品にはもう1人重要な、しかし登場しない人物がいます。それは、トム自身が冒頭のモノローグで語ります。

トム「この劇にはもう一人、五番目の人物がいるのですが、彼はマントルピースの上にかけられた実物より大きな写真に出てくるだけです。

彼はだいぶ前に家を飛び出していったぼくたちの父です。」(同、p.18)

つまり舞台上に父の写真が飾られているのですが、それはただ置いてあるだけではなく、例えばトムのあるセリフに対して、

「あたかもそれに答えるかのように、父の笑っている写真が照明を受けて浮かびあがる。」(同、p.58)

というト書きのように、ほとんどそこにいるかのような存在感を持たされています。

あまりよく知らないKさんと話をした時、彼女は春に大学でパフォーマンスをやったそうなのですが、それは留学でヨーロッパにいる友人たちとスカイプを通じて(映像を壁に投影した状態で)質問をし合い、それに答える、というものだったそうです。

ぼくは見られなかったのでいったいどういうことが起きたのかはわからないのですが、彼女の説明(メール)によると、

「このプロジェクトは あなたとわたし がどこにいるのかをさがす実験をしようとしたものです。

今は、どこでも誰とでも一緒にいることができるけど

どこにもでもいるということはもしかしたらどこにもいないということなのかもしれないと思った」

という意図があったらしい。それは、Kさんは友人たちとはフェイスブックなどのSNSを通じて、お互いの動向を知っている。そのようにして実際の距離に関係なく「つながる」ことが現在はできるのだが、そのようにしてあらゆる人とつながることは実は誰ともつながっていないということと同義ではないのか。彼女はたぶん、自分が本当であると感じるつながり方を確認したかった。そこで考えたのが、質問をするということでした。

「質問の先には誰かがいます。

質問をするときだけが 

あなたが誰かではなく わたしにとってあなたになり あなたにとってのあなたがわたしになる」

質問をするには相手が必要であり、だからこそ、質問をする時、そこには相手が確実に存在する。反対に、質問をしない限り、相手は不要であり、存在しない(存在しないに等しい)。

これは、もう少し範囲を広げて考えられるのではないか、とぼくは話を聞きながら思いました。

例えば、脳死した人は死んでいるのかいないのか、という議論があります。脳死は、人工呼吸器などで呼吸ができ、心臓も動いているので、生命維持はできている。しかし、その人がその人たる所以(を脳に求めた場合、その機能)を失っている状態である。

「脳死は人の死か?」という議論をしている私にとって、例えば脳死になった人物がいるとして、私がその人物のことをよく知らなければ、私はその人が死んでいると判断しやすいと思います。いっぽうで、身近な人物が脳死になった場合、私はきっとその人が死んでいるとはなかなか認めないと思います。そして、病室に言って隣に座り、手を握ったりしながら「今日はこんなことがあったよ」などと呼びかけるのではないかと思います。

(具体的に思い浮かぶのは母のことで、脳死ではないが寝たきりでほとんど意思の疎通ができなくなった祖母の見舞いに毎週のように通っていました。ぼくも連れて行かれたが、祖母を前にしてもあまり死や生への考えが浮かばなかった。まだ小さかったのかと思ったが、確実に小学校高学年以上ではあったと思うので、あまり祖母のことを身近に思っていなかったのかもしれない。)

Kさんの感じていたことはそれに近いのではないかと思って、つまり離れた状態にある友人を、SNSというつながりの中に埋もれさせてしまうことで呼びかけの対象でなくしてしまうことを恐れたのだと思います。なぜなら、呼びかけの対象でなくなった相手は、「死んでいる」のに等しいからです。それは、『ワンピース』という漫画に出てくるドクター・ヒルククが

「人はいつ死ぬと思う…?

心臓を銃で撃ち抜かれた時……違う。

猛毒のキノコスープを飲んだ時……違う!!!

…人に忘れられた時さ…!!!」

(16巻 第145話 「受け継がれる意志」より)

と言ったみたいなことで、たとえ(心臓が動いている、などの意味で)生きていても、忘れられてしまったならば、(忘れた人に取って、忘れられた人は)死んでしまったということかもしれない。

(これらのことを特に考えはじめたのが昨年の桜塚やっくんという芸人の死で、2005年にブレイクした後しばらくしてテレビにはあまり出なくなった。それですっかり忘れていたのだけれども、交通事故によって亡くなったというニュースが秋ごろに流れて思い出した。つまり、死が記憶をよみがえらせた=生き返った、という事態について考えはじめた。)

『ガラスの動物園』の話に戻ると、この作品では、登場しないはずの父の存在がとても大きい。それは、人物たちにとって父がいつまでも呼びかけの対象であるからでしょう。その呼びかけ方は人物たちによって違うし、呼びかけることで、各々が各々の返答をもらっているように思えます。そこにはいないが、呼びかけられる対象ではあるとは、いったいどういうことなのか?そしてこれは、なんとなく「非在」という現象(?)を考えるとっかかりになるのではないか?つまり、存在しない者に対して、呼びかけることによって、(呼びかけている者にとっては)存在している(かの)ように感じられるようになる。例えば「英霊の無念を思え」という時、「思え」と言っている人にとっては、本当にその英霊というかある特定の個人のことが頭にある。というか、「Aさんは立派に死にました」のようにいう時、たとえそれが「非在者の語り」(前記事参照)的なことであったとしても、発語者本人にとってそれは本当のことだし、それは母が、祖母が亡くなった時に「ありがとうね」

「ありがとうね」のように繰り返し言っていた(たしか)ことに近いはずだと思う。


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