『非在』について(『緑茶すずしい太郎の冒険』との関係、『<個>からはじめる生命論』)
(画像:フライヤー没案。越による。)
これまでのヤリナゲの作品のタイトルを並べてみると、『八木さん、ドーナッツをください。』『パンティー少女ミドリちゃん』『緑茶すずしい太郎の冒険』のように、「人名が入っている」「すこし長い」というのが特徴だったのですが、今回は『非在』といって、だいぶ違います。なぜこんなに違うのかというと、いつもはタイトルだけが先に決まっていてそれに合わせてお話を考えていくが、今回は先にお話というかおおよそのテーマがあり、そのテーマを端的に表す言葉「非在」をタイトルにしたからです。
では「非在」とは何かというと、実はこれは前回公演の『緑茶すずしい太郎の冒険』と関係があります。『緑茶』は出生前診断がテーマのお話で、あらかじめ障害を持った(と診断された)赤ちゃんを産むのか、それとも中絶するのか、というのを主人公の女性が判断を迫られる、というような劇でした。特徴的だったのは劇中に当の胎児が登場し、始めから終わりまで母親にくっついて彼女の言動を見ているという点で、彼女が医師から診断結果を聞いている横で、「えー、障害があるなら生まれたくないよ」とか、「いやけどやっぱり生まれるのもいいかもなあ」というようなことを話すということでした。
さて、この公演に対していただいた感想で、
「お腹の赤ちゃんも生きたがっているんだなあと感じた」
という趣旨のものがいくつかあった。うち一つはぼくの母からだったのですが、ぼくはこの感想に対して、どうも居心地の悪いものを感じました。それは、これが中絶に反対する人々が用いる「赤ちゃんがかわいそう」というレトリックに似ていると思ったからです。
ここからはほとんど、『〈個〉からはじめる生命論』という本の第3章の4の真似になります。例えば、中絶への反対を表明する時に、「私は中絶されていたら、私はあなた(=親)のことを恨んだだろう」という言い方をするとします。一見意味が通じそうですが、よく考えてみると、「中絶されていたら」という仮定をするのは現に生きている「私」だが、「恨む」のは中絶された「私」のはずで、しかし実際に中絶されていたら、そもそも「私」は存在しないのであって、「中絶されていたら」という仮定をすることがそもそもありえない。では、いったい「恨む」と言っているのは誰なのかというと、それは現に生きている「私」に他ならない。つまりここでは、中絶に反対であるという現に生きている「私」の意見を、中絶された「私」、すなわち実際には存在しない者が語っているかのように見せているのではないか。
この、実際には存在しない者が語ることを、「非在者の語り(=騙り)」とこの本は呼んでいました。ぼくなりにもう一つ例を挙げると、中絶された胎児の写真(形のできあがった手足や頭部など)を見せ、この子どもはもうほとんど生まれることができた、と言う時、ある段階(妊娠22週)を過ぎていれば生まれることができる(=適切な処置によって生存する可能性がある)ことは事実であるが、そこから「この子は生まれたがっていた」という意見に行きつくことは可能なのか。すなわち、「お腹の赤ちゃんも生きたがっている」という時、それを述べているのは誰なのか。あたかも胎児が発言しているかのようだが、実際には中絶に反対の意見を持つ人が、胎児=非在者が話せないこと(=意志の確認ができないこと)を利用して、自らの意見を述べているのではないか?それがあたかも胎児自身の意見であるかのように見せかけて?
(区別すべきは、胎児が生まれようとするのはそれが胎児の「意志」なのか、それとも「生命活動」なのかというところかもしれません。ここで「赤ちゃんが生きたがっている」というのは、たぶん生命活動として、たとえば生まれたばかりの赤ちゃんを痛めつけたとしたら、その時赤ちゃんは泣いたりなどして抵抗するだろうが、それは「生命体として」抵抗するのであって、「意志」を持ってするわけではない(「意志」があると確認できるわけではない)。ところが、「赤ちゃんも生きたがっている」は、それが胎児の「意志」であるかのように聞こえさせるはたらきがあると思います。だからここで私が言いたいのは、胎児の「意志」の有無が中絶の可否につながるのかということではなく、あくまで理屈として成り立つかどうか、ということだと思います。)
さて、「非在者」はさまざまなレベルで存在があり得ます。まだ生まれていない者はもちろん、死んでしまった者もまた「非在者」です。そして死は、様々な形で美化されることがあります。
上述の本から続けると、例えば「かつてこの国の若者たちは、愛する者を守るため、そして国を守るために、戦場で尊い命をささげた」のように言う時、ここにはたぶん「戦場で尊い命をささげた(=ゆえに、死ぬことは尊い)」という含意があります。しかし、「愛する者を守ること」や、「国を守ること」が尊いことだとして、しかし「死ぬ」ことは果たして賛美すべきことだろうか。引用してしまうと、論点は「愛する者を守ることや国を守ることの価値ではない。問題は、そこに死という表象が動員されることだ。」〈p.181〉
「愛する者を守る」とか、「国を守る」とかなら、尊いような気がします。たとえそれが戦争に関することだとしても、例えば映画『宇宙戦争』(2005)を見ると納得がいきます。ある日、全世界に宇宙から謎の飛来物がやってきて人々を襲う。主人公のトム・クルーズはダメな父親なのだけれども、子ども(ダコタ・ファニングともう一人男の子)を守るために必死で戦う。その状況で、おそらく宇宙人側に肩入れしようとは誰も思いません。子どもを守ろうとするトム・クルーズ(あるいは、アメリカを守ろうとする軍隊)を応援すると思います。
しかし、そこに「死」が入ってくるとどうなのか。アニメ版『鉄腕アトム』の最終回は、地球を守るために、アトムが暴走し熱くなりすぎた太陽に、冷却カプセル(?)を抱いて突っ込むという内容です。(実は直前まではカプセルを積んだロケットが自動で太陽に突っ込むようになっていて操縦士のアトムは脱出できるはずだったのだが、故障により手動の軌道修正が必要となった(たしか)。)ここでのアトムの死(ロボットだが)は称賛すべきことでしょうか。たしかに、地球を守るために冷却カプセルを太陽に突入させた、そのことは評価できると思います。しかし、はたしてそれはアトムの死それ自体を賛美する理由になるでしょうか。ほかに選択肢がなく、やむを得ず自己犠牲的な行動を選択した、そのことは尊いことだと思う。だが、だからと言って、アトムが無事に帰還しないほうがよかった、というわけではない。ミッションを達成したうえで、アトムが生還できるのならばそれが最も望ましかったはずです。つまり、「死」自体は素晴らしいものではない。
つまり、上記の表現「かつてこの国の若者たちは、愛する者を守るため、そして国を守るために、戦場で尊い命をささげた(=ゆえに、死ぬことは尊い)」は、前半と後半とで分ける必要があります。つまり、「かつてこの国の若者たちは、愛するものを守るため、そして国を守るために」戦った。しかし、「戦場でささげた」命は(生命に価値を認めないという意味ではなく)尊いわけではない。というか、「ささげた」という言い方はできず、「その結果死んだ」というようなことになる。
そしてこの本が述べているのは、これもまた「非在者の語り」ではないか、ということでした。死んだ者が死ぬことの尊さを主張することはできない。それができるのは、今生きている者だけである。つまり、今生きている者が、死んだ者が自らの死をあたかも自分で評価しているかのように、語っているのではないか。そのために、「死」が尊いというような言い方が出てくるのではないか。
(けれども、例えばぼくがぼくの祖父が死んだ時に悲しんだり、おそらく親が死んだ時に悲しむように、そして彼らの人生に何か意義を見出そうとするように、戦死した人間の身近な人が、その人の死を何かで意味づけたい、という心情自体は、まったく普通のことであると思う。だから、それが「生まれなかった赤ちゃん」だとか、「戦死した若者たち」のように、漠然と、ぼんやりと大きなカタマリになることで、扱いが難しくなっていくのだと思う。)
それで、何か「非在」である存在(?)が語るような劇を、もう一度、少し扱い方を変えて行なってみたいと思い、とりあえず戦争中の日本の劇にしようと思ったのが、この劇の動機の一つです。