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稽古場より(ヤリナゲの稽古)

(左から、出演者の岡部瑶子、中野雄斗((石榴の花が咲いてる。)))


こんにちは。越です。今日はヤリナゲで行なわれている「終電逃しちゃった」という稽古について考えたことを書きます。(写真参照)

「終電逃しちゃった」はエチュード(即興劇)です。簡単な設定と役だけを与えて、即興で演じてもらうというものです。

タイトルからなんとなく想像がつくかもしれませんが、設定は「終電を逃してしまった実家暮らしのAと、近くに一人暮らしをしているBが、駅のそばのベンチに座って話している」というものです。AとBは恋人関係というか、わりとよい雰囲気なのだが、まだ相手の家に行ったことはない、という状態です。

この設定だけではさまざまな展開があり得るのですが、演じ手二人には、「二人でBの家に行く」という目標が与えられています。つまり、二人とも共通の目標を持っているのだが、その目標に一直線に向かおうとするとあまりにアケスケすぎる(「ちょっと今日泊まっていい?」「あ、うん」だと、もう何度も家に行ったことがある関係っぽい)ので、自然、遠回しな会話が展開することになります。

やってみるとわかるのですが、ここには演じ手のプライベートな社交性が現れます。つまり好きな人と二人きりというかなり個人的な状況だが、まだ相手との仲はそこまで深まっていないので、ギリギリのところで社会的というか、まだ人に見られてもはずかしくない(と本人的には思われる)ラインをついてくるのです。

セリフを書き出すとこのようになります。


「え、大丈夫なの、ちゃんと、帰れるの?」

「あー、、ちょっとダメかもしんない。」

「え、ウソ大丈夫?」

「うん、、、いや今日休日ダイヤなの忘れてた、、、」

「ああ、、、あー、え、どうする?なんかもうちょっと、飲んでく?」

「んー、あーけど、あんま今日はもういいかな、、、」

「ああ、、、」


人によって得意なパターンや苦手なパターンはあるようなのですが、確実にコツはあります。ただし、それをここに書くといつか自分がこれを読んでいる人とこのようなシチュエーションになった時に、あ、コレあの時書いてあったやつだ、となるかもしれず、それは嫌なのでここには書きません。

ただ、うまくいく二人には共通点があって、それは、お互いが協力的であるという点です。AとBが「Bの家に行きたい/来てほしい」という目標に向かって、言外に協力し合うことが重要なのです。言外というのはしぐさというのもそうですが、相手の出してきたボールを別方向へ打ち返すことで、言葉の裏にあるメッセージを有効化するということです。上の例で言えば、「飲みに行かないか?」という提示を「行きたくない」と返すことで、「飲みに行く」という選択肢を除外しています。言い換えれば、「Bの家に行く」以外の選択肢を少しずつ削っていくことで、目標に向かって消極的に前進しているのです。そしてここで重要なのは、「飲みに行かないか?」という提示は決して、本当に飲みに行きたいと思ってなされたのではなく、この問いを否定してほしいという言外のメッセージを伴って発されているということです。お互いが協力的というのはこの点においてで、AもBも、表面上のやり取り(一見すると成立していない)の下で、懸命なラリーを続けているのです。


(たぶんこれは、即興劇(インプロ)でよく言われる「イエスアンド」と、おそらく正反対の関係、すなわち「ノー、バット」の関係にあると思います。インプロはやったことがないのですが、インプロにおいてはストーリーを進展させるには、相手のオファーを受け入れ、さらにそれにアイデアをプラスすることが必要だそうです。

例えば、「これからサーカスに行かない?」というオファーに対して、

「あ、行きたい!(イエス)+ライオンの火の輪くぐりが見たいな!(アンド)」)

のような反応が求められているのです。これをもし、

「これからサーカスに行かない?」

「えー、サーカスは嫌だよ」

のように返してしまうと、せっかくのオファーが生かされず、ストーリーが膨らみません。

インプロの場合は最終的な目標が決まっていない(ゲームによっては決まっている場合もある)のでこれが重要だが、「終電逃しちゃった」においては明確な目標があるため、ストーリーが極端に膨らまないほうがいいのかもしれません。すなわち、

「飲みに行かない?」

に対して

「行きたくないなあ(ノー)+(泊まりに行きたいなあ)(バット。ただし言外に)」 というやり取りになります。)


ぼくはこの「終電逃しちゃった」エチュードが好きで、一番はおもしろいからですが、二番にはこれがとても、台本を演じるという状態に似ているように思うからです。どういうことかというと、台本にはさまざまな人物が登場します。仲良し同士もいれば、敵対する者同士もいます。ただ、どうやら、どの人物たちも、そのお話を終わらせようという目標だけは共有しているように思えます。実際に演じる段階や演出するという段階ではどうかわかりませんが、少なくとも劇が書かれている段階では、けっこうそういう面がある気がします。『ロミオとジュリエット』でティボルトがマキューシオを殺すのはロミオが逆上するためとかそういうことです。難しい劇だとそういうのはもしかしたらないか、全然見えにくいかもしれないんですが、普通、劇には終わりがあって、出てくる人たちは終わりに向かってしゃべったり動いたりしているのだと思います。

何だか漠然としてきましたが、例えばAとBという二人が話しているという場面で、このAとBを演じる演じ手は、AやBそれぞれの性格とか目的みたいなもののほかに、その場面を終わらせて次の場面に引き継ぐという役割も負っていると思います。それはストーリーを追う時に見える必要はないけれども、どうしても根底に流れているものだし、事実その通りにAとBのやり取りは進行するはずです。ここでAが勝手に、今後の展開が求めるものとは正反対の言動を取った場合、Bは混乱するし、二人のやりとりは場面としてちぐはぐになり、劇全体で見ても「浮いた」感じになると思います。AとBの演じ手は、どうしてもこの劇を終わらせるという最終的な目標を目指さなければならない。(良いか悪いかというか、そのような主義が求められる場合には、それに従うべきである。)「終電逃しちゃった」は、かなり浅いレベルにおいてではあるけれども、それに通じているような気がしているが、ただ、全然そんなことを考えずに、岡部さんが意外と積極的だ!みたいな点を楽しんでいます。


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